子どもの本

2014年11月28日 (金)

ぼく あひる


Book08_2

ミーシャ・リヒターさく 冨山房

♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠


だれか いっしょに あそんでくれないかな…

ひとりぼっちの あひるは

ともだちを さがしに でかけます

というシンプルな文章で始まる絵本。原題は『QUACK?』

書店の児童書コーナーで、この絵本を立ち読みしながら泣きそうになった。

もちろん泣きはしない、大人だから♪

ぐっと涙をこらえて、絵本を持ってレジへ急いだ。買った。帰った。

自宅で再読した。泣いたさ!

大人が子どもの絵本を読んで泣くことがある。

泣ける絵本はそうざらにはないが、何冊かある。

 千の風がナンタラカンタラ~

 わたしは もうそこにはいません~

 あら じゃあ どこにいるの~?

みたいな絵本で、私は泣かない。泣くもんか!

ラストで生き物が死ぬ絵本でも、まず泣かない。少し泣くかも。

だいたいこういう絵本は、

読者を泣かせて出版社が(お金を儲けて)笑う仕組みになっている。

『この絵本は、世に出すことに意義がある!』

みたいなことを言うが、まずウソだ! 泣かせて儲ける商売である。

マスコミで取り上げられる感動本というのも、

大半は出版社が笑うために出している。

『泣ける絵本』という商品は、ほぼ大人の都合で作られる。

作る側にとっては、楽に作れる本なのである。

なぜなら、失敗しても大義名分が立つから。

『泣ける絵本』というのは、ずるい大人が作るにはもってこいなのだ。

お金を払ってまで、
出版社の戦略で泣かされてはたまらない。

私にとって『泣ける絵本』とは『思わず泣いちゃった』絵本である。

この絵本で泣くなんて予想もしなかった。

しなかったのに泣いちゃった。

そういう絵本に出会うと、とても感動する。

あんだって? 前置きが長いってか!

タダで読んでるくせに文句言うな!

すく本題に入るから!

さあ、本題だ!

(いきなり入るんかい!)

『ぼく あひる』という絵本は泣ける絵本ではない。

この本で泣いた!という話は聞かないから

(私が聞いてないだけかも♪)

私が読んで、たまたま(ここポイントね♪)泣いちゃった絵本である。

だから、他の人が読んで泣くとは限らない。

どちらかというと、子どもたちは笑うそうだ♪
(笑うんかい!)

ひとりぼっちのあひるくんが、池で泳いでいる。

水面に映る自分に向かって があ? と一声。

いくら呼んでも返事はない。さびしいぜ。

あひるくんは岸辺にいるカエルに向かって があがあ?

カエルの返事は けろけろ

ネズミに向かって があがあ?

ネズミの返事は ちゅーちゅー

ハチに向かって があがあ?

ハチの返事は ぶんぶん ぶんぶん

ロバに向かって があがあ?

ロバの返事は ひーほー

牛に向かって があがあ?

牛の返事は もおー

ヤギに向かって があがあ?

ヤギは めえー! とばかりに、あひるをぶっ飛ばす。

かように友だちを求めども、があがあ?と答えてくれる友はなし。

このあとも、あひるくんは涙ぐましい努力をするのだが…

という絵本である。

まずは、このすばらしい絵を見てほしい!

Book0801

このユーモラスな絵に導かれて、

健気なアヒルくんのお話は進んで行く♪

子どもが笑うのは、全編、動物の鳴き声で構成されているからだろう。

擬音語のある絵本は、ほぼ子どもの人気の的になる。

この絵本は、まさに擬音語の嵐である。

擬音語が、この絵本の面白さの核なのだ。

そして、勘のいい人ならラストがわかるかもしれない。

しかし、ラストが読めた! と得意になってはいけない。

ひとりぼっちのあひるが、友をさがしてさまよえば結末はひとつ。

生涯ひとりぼっちで暮らしました というラストはあり得ない。

どもの本には、安心感を持って終わるという鉄則がある。

この安心感を持ったラストは古い! という風潮があるが間違いだ!

子どもを不安にしてどうする? そういう大人がたくさんいる。

さて、この絵本のどこが泣けるのか?

多くの子どもが笑いながら読むという本なのに。

それはラストシーンの素晴らしさである。

その前に、リヒターさんの絵をもう一度見てほしい!

とても達者なデッサン力の持ち主である。

私のお気に入りは、この馬の絵だ♪

こういう絵はなかなか描けない。

Book0802

このシンプルな絵に導かれたラストシーンが

絵以上にシンプルで素晴らしいのだ!

次々に動物たちに話しかけるあひるくんだが、一向に友だちができない。

あひるくんの望みはただひとつ。

があがあ! と同じ声で答えてくれる友である。

あひるくんはひたすら友(理解者)を求め、あっちへこっちへ。

しかし、なかなか友だちに出会えない。

やがて希望が絶望へと変わるあひるくんの心情が悲しい。

まずここが泣ける!

夜明けの前が一番暗い。

そう思って努力しても報われない。

誰も自分の声に耳を傾けてくれないのだ。

この絵本は、

希望が絶望へと変わる過程をとてもわかりやすく捉えている。

このあひるくんは、われわれのことかもしれないのだ。

希望を打ち砕かれるほど辛いことはない。

絶望ほど人間にとって辛いことはない。

それでも生きてさえいれば、いつかきっと明かりが照らす。

そんな保証はどこにもないけれど、そう思えれば生きて行ける。

このあひるくんは、イジメられている子どもかもしれない。

理不尽な目に遭って苦しんでいる不遇の人かもしれない。

夢を追って、暗いトンネルを歩いている人かもしれない。

人間が幸せになるためには、越えなければならないハードルがある。

ハードルをいくつ越えればいいのかは誰にもわからない。

そんな時は、終りのない絶望感に押しつぶされそうになる。

そんな時は、このあひるくんを思い出してほしい!

そして、このあひるくんがどうなったかをよく見てほしい。

この絵本のラストシーンは、まさに希望そのものだから!

ちなみに、最初に表示した表紙の絵はラストシーンではない。

本文には出て来ない表紙用の絵である。

ここらへんの演出もうまい!

あきらめさえしなければ、あひるくんのようになれるかもしれない。

あきらめさえしなければ、笑顔を取り戻せるかもしれない。

そのためには、があがあ! と繰り返し繰り返し呼び続けるのだ。

きっと答えてくれる人がいるだろう。

あひるくんは、あきらめなかった。

だから私は泣いたのだ!

くま吉:あんさん!

くま太:なんや?

くま吉:わても泣きましてん!

くま太:キミ、絵本読んで泣くんかい?

くま吉:泣きますよ。

くま太:そうか。

くま吉:そうかて… あんさんも絵本読みなさいよ!

くま太:ハイハイ、読みますがな。

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2014年11月 5日 (水)

白雪姫 グリム童話集1



Book05_16




本屋でたまたま目に止まった。
そういえば最近、グリム童話を読んでない。

若い頃は、アンデルセンと共に繰り返し読んだのに。

というわけで、久しぶりに再読♪


この文庫版は、グリム童話の完訳ではない。

グリム研究の第1人者フリードリッヒ・フォン・デァ・ライエンという、

舌を噛みそうな名前の偉い教授が校訂したテキストを訳したもので、

特に優れたグリム童話を同種類の作品ごとに分類している。

いわゆる『傑作選』である。

グリム童話は、ドイツ語の素晴らしさを後世に残したいという

言語学者グリム兄弟の思いから生まれたもので、
出版当時から、版を重ねるごとに新しいお話をどんどん追加している。

グリム童話に似たようなお話が複数あるのはそのためだ。

ドイツの民間伝承を研究する人には完訳本がいいのだろうが、

私のような素人には読みやすい方がいい。

そして、新潮文庫のグリム童話はとても読みやすいのでおススメだ♪

さて、この第1集には23編が収録されている。

有名な作品では、『小人のルンペルシュティルツヒェン』『ラプンツェル』

『灰だらけ姫(シンデレラ)』『白雪姫』が載っている。

グリム童話は、創作のアンデルセン童話とちがい、ドイツの昔話である。

とくに子どものためのお話ではないので、残酷な描写が多くある。

ただ、グリム童話の残酷さは『面白さ』でもある。

童話に含まれる残酷さは、ときに子どものトラウマになるかもしれないが、

誇張された残酷さの中に、物語としての面白さのエキスが詰まっている。

悪者が罰を受けました、と言うより、

悪者は首をちょん切られました、と言う方がインパクトがある♪

悪事を働く者がどうなるかということを視覚的な言葉で伝えるには、

この残酷性は極めて効果的なのだ。

この童話集の中にも、


小鳩が姉たちの片目を一つずつ、つつきだしてしまった(灰だらけ姫)

まっ赤にやけたスリッパをはかされ、死ぬまで踊り続ける(白雪姫)

などの表現があり、かなり過激である。

これが現実なら目を背けるところだが、物語ではとても面白い場面なのだ。

グリムの研究者がこの残酷性をどう解釈するかは知らないが、

理屈ではなく、直感でものの本質を感じ取る子どもにとって、

この誇張された残酷さは、とても視覚的でわかりやすいのだろう。


今回、これらの誇張された残酷描写を読んで感じたのは、

昔のマンガ表現とよく似ているなぁ ということだ。

びっくりすると首がピョン!と飛んだり、

怒り心頭に発すれば、頭に出来た火山が噴火したり、

剣豪マンガでは、手や首がよく飛んだものだ。

今では古くなったこういう荒唐無稽な表現法こそが『マンガ的表現』だった。

誇張された『マンガ的手法』は、面白さの演出であり、

残酷さと同時に『面白い!』と感じさせるマンガ独自のテクニックである。

今のマンガには、こういう表現はほとんどないけど♪

しかし、生真面目な大人たちにはこれが気に入らない。

それがマンガ批判となった。

マンガの荒唐無稽さは批判の対象になるが、

芸術として認められたグリム童話の荒唐無稽さを批判する人は、まずいない。

そんな勇気のある大人はいない。大人の評価とはそんなものである。


かつて、

『本当は恐ろしいグリム童話』という本が飛ぶように売れたが、

そのあまりの売れ行きに違和感を覚えたことがある。

そもそも、グリム童話の初版本が出版された時代、

当時の人々は、これを残酷と受けとめたのだろうか?

昔の人は、われわれ現代人より遥かにたくましかったはずだ。

グリム童話の残酷さを大らかに受けとめたに違いない。

純粋培養ではまともな大人は育たない。

世の中の負の面と関わらずに行きていくことは不可能である。

光があれば影があるのだから、この影の部分をどう表現するかは、

子どもの本でも、避けられないことなのだろう。

ここまでは良識のある大人なら誰でも考える。

問題はそれをどう表現するかということだが、

どうしても大人というのは、視点が高くなってしまう。

そして、そのことに自分では気がつかない

『本当は恐ろしいグリム童話』という本が売れたときに感じた違和感とは、

子ども不在のまま児童書の視点が上がってしまうという危惧だった。

実際、日本の児童書は、芸術性を重視する方向に偏っていった時期がある。

現在は、大分修正されたように見えるが、実際のところはよくわからない。

子ども向け作品における残酷さには、昔から賛否両論がある。

必要だという人たちは、視点の高い人である。

必要ないという人たちは、生真面目な人である。

こういう傾向は世界的なものらしく、どうしても両極端に分かれるようだ。

ここで言う残酷さは、残酷を売り物にするということではない。

子どもの本も、人間を描けば『負の面』は避けられない場合がある。
そういう意味での残酷さだが、

それをどこまで描くかということは、

知らずに視点が高くなっている大人には、判断がむずかしい。

今や童話作家としての名声が高くなってしまったロアルド・ダールさんは、

子どもの本の作家になるための条件を7つ上げている。

その中に

大人向けの作品を書くときには、絶対必要ではないが、

子ども向けの作品を書くときに必要不可欠なものとして、

『ユーモアに敏感であること』

と述べている。

視点の高い人と生真面目な人の間に入るのが

ダール

さんのような

ユーモアのある人

だ。
日本の児童書界に極端に少ないのがこのタイプである。


マンガの荒唐無稽な表現も、その本質はユーモアである。

問題は、その荒唐無稽さのセンスの良し悪しだけなのだ。

子どもマンガでも、絵本でも、センスのいい荒唐無稽さというのは少ない。

子ども向け作品におけるユーモアのセンスというのは天性のもので、

これを持っている人は強い!

しかし、日本の児童書業界が遠ざけて来たのは、実はこういう描き手である。

グリム童話の残酷さには、センスのいいユーモアを感じる。

非常に伸び伸びとして大らなのだ。

現在の日本で、こういうユーモアを取り戻すのは至難の業かもしれない。

マンガやアニメだけでなく、

リアルな表現が子どもの本にも増えていくのは考えものである。

リアルな表現には、柔軟性がない。

高い大人の視点が、わが物顔で子どもの世界に入り込むのは疑問だ。

少なくとも、子ども向けの作品だけは柔軟な発想を失わないでほしい。


TVのニュースでは、本当に残酷な出来事が報道されている。

その中でも、子どもが子どもの命を奪う事件が、一番痛ましい。

教育関係者は、命の教育に力を入れている矢先の出来事で、

非常にショックであり、なぜこういう事件が起るのか理解出来ないと言う。

私だってわからないさ。

なぜ、命の重さを実感出来ない子どもが増えるのか。

私が子どもの頃は、命の教育なんてなかった。

なくても、自然に学んで大人になれた。

グリム兄弟が生きた時代にも、こういう事件があったのだろうか?

人々の暮らしは、今よりずっと素朴だったはずだで、

今のように、子ども同士が殺し合ったとは思えない。

グリム童話の素朴さ、自由さ、荒唐無稽さ、残酷さは、

子どもたちを豊かにすることはあっても、その逆はなかったろう。

大人も、今より子どもの視点を持っていたにちがいない。

グリム兄弟が、子ども好きだったかどうかは知らない。

しかし、彼らの残した仕事が今でも世界中の子どもたちを楽しませていることは、

彼らが子どもの視点を持っていた証拠だと思う。

特に、文学的才能に恵まれた弟のウィルヘルム・グリムは、

子どもの視点を大切に持ち続けた大人だったろう。

 

大人になって再読したグリム童話は、

若い頃より、遥かに感動的な読み物だった。

面白かった♪

 

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